生煮えの餌で獲物が腹を壊す

エイプリルフールネタで東京新聞を引き合いに出したら、以下の社説がらみで「おとなり」がぞろぞろ引っかかった。相変わらず「類似点の指摘に相違点をもって反論する」系のインチキリテラシが多いのだが、当の社説も私が書いたんじゃないかと思うぐらいひどい文章なので、自業自得か。

 権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。

 「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。

 首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。

・・・イキナリでなんだが、「強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会」ってフレーズはプチサヨ的にも疑問だ。それって自由とは関係ないよ。独裁制であろうと封建制であろうと強い者と弱い者が共存できなければ安定した社会は作れない。
多分、民主国家では強者の自由を制限し弱者の自由を拡大する事によって各主権者の「利権」が平均化された状態で国家運営を行う・・・という理想論の事言ってるのだろうとは思うけど。


で、この引用部分以下の文章は、何故か「自由」という単語を使いつつも実際にはダブスタ批判だったり規制緩和批判だったりバカウヨ増殖批判だったりするワケで・・・自由とはあまり関係ない。はっきり言って「自由」そのものについてはカタっていない。なんだかなぁ・・・。


で、ネットの反響の方で「自由」が語られるワケだ。中でもちょっと気を引いた発言に「自由の行使には責任が伴う」というモノがあった*1。確か左巻き批判の文脈だったんだけど、コレってそっくりそのまま右巻き批判にも使えるんだよね。
例えば「首相の靖国参拝」について考えて見ると、首相には信教の自由があるので靖国参拝するのは構わないけど、ソレに対する批判は甘受するべきで「批判されるのはおかしい」という認識は変。もっと言うと次期首相は中国首脳が「靖国参拝する首相とは付き合わないよ」と宣言しているにもかかわらず靖国参拝を行うなら「中国首脳とは付き合わなくてもいい」と言ってる事になる。それが「自由の行使」ってモンだと思う。


さて、このネタはそもそもの社説がグズグズなシロモノなので議論もグズグズになっていくのは仕方が無いのだが、つくづく「みんな国際関係と国内問題を同列に語りたがるなぁ」と思った。これはサヨ側もウヨ側も同じ。前にも書いたと思うけど「正論」を盾に外交をするのは無理、国際関係に「神の法律」なんてありませんよ、売国サヨ並びに亡国ウヨの皆さん

*1:どこで見たのか失念