「大虐殺」という単語

以下のエントリを読んでチョッと考えた。

次に「大」ですが、これは多様な主観的解釈が存在するでしょう。大雑把にみて100人以上、1000人以上、10000人以上…という基準が考えられます。これについても私は確かな見解を持っているわけでありません。しかし、最低でも「10000人以上」の虐殺は「大虐殺」と呼ぶことに問題ないと思います。


大抵の場合、南京事件については否定派も肯定派も「大虐殺」の「大」を量的な指標によって定義している(様に見える)。この場合、指標が主観的か客観的(そんなものがあるなら)かによらず、「比較による大小」を使っているワケだ。
ところが、「大小」には「集合による大小」というのがある。例えば「大管区」と言ったら複数の「管区」を統合した区域を言う。「大司教」と言ったら複数の「司教」を束ねるヒトだ。


あまり異論は無いとは思うが、南京事件における「虐殺」と呼ばれる事件と言うのは別に「軍単位」で統一的に「虐殺作戦」を繰り広げたワケではない。個々の部隊が様々な理由により虐殺を習慣的にやっていたというだけのコトだ*1
で、これらのバラバラな「虐殺」を、日本軍が南京侵攻時に行った「虐殺群」という捉え方をした場合、単独の「虐殺」ではなく多数の個別の虐殺事件の集合という意味で「大虐殺」と括るってのはアリかもしれないな・・・なんて。多分賛同は得られないとは思うけど。


なぜこんな事考えたかと言うと、世に言う大虐殺ってあまり「単独の虐殺事件」を指すケースって聞かないな、と思ったから。単独の場合は「大殺戮」って形容が似合っていると思う、個人的には。



追記
こんな捉え方もあるんか・・・

 これは後ほど述べますが、中国側の「組織的計画的な軍民併せて三十万人以上<大>屠殺」にしても、日本の<左派>の「南京<大>虐殺」にしても、南京事件が「<大>虐殺」であるのは、その虐殺規模の<量>的巨大さを指しているのはもちろんですが、20世紀において「日本軍国主義」が犯した<人類史上の汚点>の一つであるという<質>的なレヴェルで<大>事件、俗な言葉でいえば、「世紀の<大>ごと」という意味で、「南京大虐殺」は南京<大>虐殺ということにもなる。

まぁApemanさんの言う所の「表現のもつセンセーショナルな効果」基準ですかね。確かに南京虐殺論争を「現代の政治の道具としてのトピック」として扱うならそういう考え方もあるかも知れないが、私は単に「崔杼弑其君」と書かれていれば満足です。政治に利用するのはその後。

*1:「虐殺」と解釈するかどうかの問題は別。ここでは「誰かが虐殺と認定した行為」という意味で捉えてもらいたい