神になった(つもりの)医師


実際問題、有限である資源の分配には何らかの選択をする必要がある。それは医療も例外ではないだろう。
で、生死の分かれ目で判断を迫られる医者は「神になったつもり」くらいの意識じゃ無いとやってられないのかもしれない。

娘は泣き崩れた。

「お願いです。できるだけのことをしてください!」

95歳、認知症で施設に入っていた患者である。もう寿命とは思えないのだろうか。
できるだけの看護をしてくださいというのなら分かる。しかし、できるだけの治療をしなければならないのだろうか。

不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。
しかし、その家族は自分の親の命を1日でも長引かせることで頭がいっぱいのようだった。

このご家族が特殊なわけではない。

死を受け入れることができない人が増えている。


エントリ全体を見渡せば、何となく正しいコトを言っている様にも見える。しかし、細かく見るとツッコミどころが満載だ。*1
例えば

95歳、認知症で施設に入っていた患者である。もう寿命とは思えないのだろうか。

基本的に「個体の寿命」は結果論的にしか表現できないので、このセリフは「全知の神」の言葉だ。現時点で生きている人間はまだ寿命に達していないのだから。
「平均寿命を超えている」とか「可能性としてもう寿命だろう」とかの判断なら正しいのだが、それは統計的な判断に過ぎないので個体には直接適用できない。
従ってこの医師の行為は「他人の寿命を個人的判断で決定してしまった」というコトになる。


ココらへんがこのエントリの微妙なトコロ。
例えば「これ以上の治療は患者を苦しめるだけだから」ってな理由なら、一応「患者本位」の判断であると言い切れるかも知れない。
例えばAとBの患者がいて、どちらか片方を優先的に治療するコトによって「自分の施術による合計寿命の延伸を図った」・・・ってコトならまだ理解は得られるかもしれない。
ところがこの医師は「仮想上の患者を優先するために眼前の患者の治療を控えた」形になっている。そしてその言い訳として

不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。

と述べている。ここで彼は「95歳の老人の命を数日長引かせることの意味」を判断する権限を自分に付与してしまっている。つまり彼は「死の意味」ではなく「生の意味」を判断してしまっているのだ。


最初に書いた様に、医師の行動を含めた「医療の資源」は有限なのだから、この様な判断を強いられる場面は多々あるだろう。それは仕方ないと思う。しかし、その言い訳として

死を受け入れることができない人が増えている。

という嘘を主張するのは如何なものだろうか。
古今東西、人々は死に際して可能な限りの延命を画策して来た。だから「不作為による死亡」が受け入れられないだけだ。「人事を尽くした感」が必要・・・と言ってもいいかもしれない。
受け入れらないのは「死」ではなくて「天命以外による寿命の設定」なのだ。
医師は自分に神と同じ様な「寿命の決定権限」があると信じたい(そうじゃなきゃやってられない)のかもしれないが、家族はそれを認めない。それだけの話だ。

*1:ぶっちゃけ、このケースで治療方法の変更を不作為による殺人として告訴された場合、逃げ切れるんだろうか?