非科学と科学の関係、再び

イロイロあって、こんなネタを見つけた。ホントはこの前のエントリに言及するべきなのかもしれないけど、時宜を得て無いから。

という考えです。「科学と宗教は異なる領域にあって、神や霊魂の実在は科学の対象ではない」というのがよくある説明です。この説明がわからない。妙に難しい話になりがちだし。

単純に「科学で扱えないものを科学の対象にしてはいけない」ってだけの話じゃないのかなぁ。ここでいう「科学で扱える」ってのは「再現性のあるモデルを構築できる」とか「科学的に記述可能である」とか。とにかくそういう「取り扱い品目」を組み合わせて考察するのが「科学」なんだから、「非取り扱い品」を持ち込んじゃダメでしょ・・・ってコトでしょう。
一方、宗教は「取り扱い品目」の定めが無いので、「科学モノ」を扱っても構わない。ただ、「科学な処理」をしようと思ったら材料を「科学モノ限定」にしなきゃならないだけ。それができない場合は「非科学な処理」をするしかない。*1
だから「異なる領域」にあるのは「宗教と科学」ではなくて「非科学と科学」なんだと思う。・・・って字義からして当たり前か。


追記
一応「何もしない神」についても。


「全知全能の神」の御旨はその定義上、「既に実現している」と考えられる。従って、「神は何もしない」のではなく「知覚可能な事象は全て神の御業」と言える。と言うか、この世のありとあらゆる不思議の源泉を一度「神」に押し付けておいて、その中で「科学」で扱えるモノだけを科学しているに過ぎない。


「水の入ったやかんを火にかけるとお湯がわく」のも「ポストが赤い」のも「オーマイニュースJANJAN泥仕合をする」のも「水にきれいな言葉をかけるときれいな結晶になる」のも「Gedolがワケのわからないエントリを書く」のも、全ては「神の御業」なのだ。
勿論、神の御業は科学なんぞに囚われないので、ソレが科学的であるという根拠は無い。ソレだけの話だ。

*1:バチカン教皇が自転車のペダルを踏んだとき、自転車が前に進むのは「神の御業」かもしれないが、科学的現象ではないというワケでもない